米沢織物について

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米沢織物の歴史

現在、日本国内の繊維産地の中で、最北の産地である当米沢産地は、皆様ご存じの通り、米沢藩の9代藩主であった上杉治憲(鷹山公)が疲弊した藩財政を立て直し、民間の利殖をはかるために養蚕を奨励し、武家 の内職に機織をさせたのが、その発祥といわれる。

新潟県小干谷からその技術者を招いたのが時に安永 (西歴1777年)である。
当時長井地方にあった養蚕業を基礎とし絹織物に移行し、出羽の米沢織物として絹織物の名声をあげるが、麻織物から絹織物産地としての形態を成すまでに、ほぼ20年の歳月を要したと伝えられる。
寛政4年の頃である。

産地の形成は、現在の米沢織物を母体としてその評価は大きいが、藩政時に於けるその性格は、封建経済を基礎とした保護産業であり、その起因するところも封建経済に於ける宣国策としても見ることができる。

したがって発祥の経緯は、その背景と経済的要件を見ながら正当な評価が下されるべきであろうが、以来、米沢は絹織物の産地として全国に名声を馳せることとなり、明治以後も市の基幹産業として雇用機会の提供、地域コミュニティの担い手等、地域中小企業全体、ひいては地域社会全体の中核としての機能を有し、地域発展の基盤ともなり現在に至っている。

米沢織物産地の特徴は、先染絹織物の製造販売を行ってきた歴史的背景があり、産地内において、その関連業種である撚糸・染色・織物仕上・意匠・紋彫部門を包含しているとともに、流通段階である原糸商、織物 買継商とも密接な連携を保ちながら、総合的な織物産地を形成してきた点にある。

米沢織物の今

また、昭和初期にレーヨン発祥の地として、現在のテイジン(株)の前身が米沢に創設され、 レ一ヨンなど化学繊維の生産技術を全国に先がけて取り組むなど、合化繊織物の土台形成もなされてきた経緯もある。

戦後の洋装化に伴い、昭和30年頃より合化繊糸を使用した先染婦人服地が隆盛となり、米沢産地は呉服部門と服地部門の両面産地として、その時々の流行の変化に伴い呉服と服地の生産シフトを行える器用な産地としての評価を得た。

この様に、米沢の織物業は、伝統的な絹織物から発展し、現在は、天然繊維と化学繊維による服地、呉服の総合的なテキスタイル産地を形成している。

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